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闘魂 サバイバル生活者のブログ

闘魂 サバイバル生活者のブログ

百万回の言い訳

たまたまこちらへ立ち寄った、というか、ログインすることになった。更新は例によって少なく、しかし、時を置くと、書くべきことが溜まって来る。

消された伝統の復権というブログがある。京都大学名誉教授の本山美彦先生が自らをマルキストとカミングアウトして、というか、常にそういうスタンスを自覚し、公言していたのだ。僕もクリスチャンだとカミンガウトせねばならない。

このブログに置いても、もっと気楽に書くことから、原点に戻ることから、権威ぶることなく、再出発するというのが第一の主題。

そして、第二に、みずからのキリスト教の弁明をしなければならない。ぼくは無神論だった。そして、それでも仏教的なものに惹かれていた。C.G.ユングと河合隼雄、中沢新一とくればそうなる。

特に、河合・中沢「仏教が好き!」は強く感銘を受けた。内容は、再現しないけれども、仏教の奥義と物理学そして心理学の通低音が共鳴していて、きわめて興味深い対談になっていた。

しかも、神社仏閣の多い京都で、多感な7年間の内5年間を英語ガイドとして、活動していたパーソナルヒストリーがある。自然や風景は、何気なく、人格形成に影響を与えるものだ。しかも、相国寺での参禅や詩仙堂でのくつろぎなど、いまでもそれらの記憶に安らぎを覚える。

したがって、仏教を「無神論」と断じる言説は随分荒っぽいものだが、実際、橋爪大三郎・大澤真幸「ふしぎなキリスト教」で、そういう言説に接した。

ただ、やってみなければ、やってみてはじめてわかるという経験も捨てがたい。冒険主義ではあるが、子供ができたとき、それを深いレベルで味わって、経験値は大いに高まった。

ジャズのインプロビゼーションのようにその現場にいて、思いのままにやってみた、いわば応用編のような生き方になるけれども、ドンキホーテは揶揄であって、たとえとしてふさわしくない。

戦後、転向論というのがあった。主張というのは首尾一貫している方が立派だという考えが前提になっている。事実と主張が違うのは、最近はこれさえ不明瞭になって来ていて、いわゆるメディアをめぐる言説には、ここの区別があいまいになっている。彼らは「編集権」という主張を客観中立の建前と裏腹に縦横に駆使し、あくまで米国従属は変えないつもりだ。そもそも米国のジャパンハンドラーたちのカウンターパートたる高級官僚と出自が同じなのはどうしようもない。

これ以上それは立ち入れないが、転向というのはある。コーランを奉じていた本多勝一がいまどういう立ち位置にいるかは知るよしもないけれども、老化がはじまり、進歩という直線史観からずれざるを得ない現実に直面すると経験主義(経験希望主義)が出てくる。

転向論はいいと思う。主張が首尾一貫しているというのは欺瞞で、人生に真摯に向き合うそのときどきの実存がその内容だ。構造主義やポストモダンによって、自らの立ち位置のために世界観を構築する。立ち位置がわからないのに、世界にどう関与するかなど、ありていに言ってナンセンスだ。

世界観や人生観によって、自らの立ち位置を少しでも知った上で、つまり、緻密な理論を展開するにしても、その前提にエネルギーをもっともっと大きく注がなければ、できあがった建造物は傾いたものになる。

経済学にせよ、物理学にせよ、立ち位置たる前提が異なると、つまり、選択という世界への関与、それは責任を伴うのだが、いくら論理的で説得力に満ちていても、結論は180度変わってしまう。

マルクス主義経済学と近代主義経済学は前提がまったく違う。パラダイムが違うと地球を中心にして考えるのと太陽を中心にして考えるのとではのちの実存というか、世界への関与の仕方が完全に変わってしまう。

問題は世界にどう関与するかなのだ。そして、そのために前提たる世界観を形作った、人格形成に関わる一切、それは偶然によるものを含めて、経済・教育・社会・制度・国際関係・風土・気象・時代精神・システム技術など外的環境も大きい。さらに、DNAや遭遇した病気や欠損した身体・罹患した精神・トラウマなど内的環境も小さくない。

こうやってだらだらと並べてしまうとドグマのようで嫌なのだが、ここは許してもらおう。そう、ここで世界への関与という宗教の実践論的な課題に遭遇する。

結論から言ってしまうとそういう「時」が来てしまった。時間は無慈悲に人間を脇に追いやるのだが、そして、常に忘却のかなたに追いやるのだが、老化という新しい現実に直面することになって、それは想像を超えたものだと若いひとに伝えたいのだが、それは難しい。

とにかくやってみよう。考えるのはそれからだ。子供を作ったときもそうだった。そして、得たものは経験というか苦悩と歓びという人生そのものだ。自分の人生を突き放すのは変だが、老化を経験して、ひととおり普通の人生をここまで経験して来て、正直に言うと心労と気配りで、しかし、行動して意味のない、後悔だけに拘泥してしまう結果に陥ることはなかった。こう断言できる。

結局、ロングアンドワインティングロードは個性尊重、ダイバーシティに連なる。憲法的な価値を軽んじる風潮はかつてあったが、憲法を変えるのは、すくなくとも昭和天皇より生き延びるくらいだからそれだけの重さがある。

維新の会を見ていると治安維持法復活、拷問OKみたいな怖さを感じる。百年の計である教育をいとも簡単に片付けてしまうのはいただけない。

話をキリスト者に戻すと、いま通う教会は同志社系列のそれなのだが、大阪に2つ、同志社と関学、東京に1つ、上智大学という大学院を持つ、神学研究機関で、世俗的にブランディングされたものがある。

関学はメソジストというプロテスタント系の宗派で、同志社は新島襄の個性が光る機関で、宗派はプロテスタント系、上智大学はカソリックだ。

そして、陰謀論と植草一秀に触れざるを得ない。

植草一秀「日本の再生」を途中まで読んでいて、メディアや政府、官僚に対する認識は、堤未果「政府は必ず嘘をつく アメリカの失われた10年が私たちに警告すること」や上杉隆「新聞・テレビはなぜ平気で「ウソ」をつくのか」が本屋で平積みにされているのを思い出させる。

植草氏は金融資本の問題点も認識しながら、一歩踏み込んで、米国の国益とCIAの活動を射程に入れて、山県有朋以来の官僚制度、大本営報道に傾くメディア、価値中立などスタイルにすぎないと喝破したイデオロギー再生産機関たる学界を糾弾する。そして、いまやCSRとダイバシティーで苦悩する大企業中心で中小企業が多数存在する産業構造にそぐわない財界の発信力の強さと無節操主義を論難。

まあ、ちょっと財務省の既述など精緻で反論のしようがないほどの興味深い議論を展開しているのだが、引用は別の機会に譲ろう。

さらに辻隆太朗「世界の陰謀論を読み解く ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ」(講談社現代新書)が陰謀論オタクでいい。オウム真理教の教義が陰謀論ベースだったとは知らなかったし、まだまだ知らなかった事実が満載だ。しかし、立ち位置の問題になってしまうと妙な違和感を覚える。

否定に懸命になるあまり、経済史や金融史という学問が慎重に扱う、論点がすっぽり抜け落ちている。他方、オタク的に走りすぎている感じで、どうしても信用創造や中央銀行と貨幣にまつわる論点をまだ確認できていない。読了してから報告するが、そしてそれはいつのことかわからないが、「全否定の誤り」、つまり、唯一絶対の正しさを主張するから、メカニズムとして、他の言説の存在を抹殺する、イデオロギーをめぐる、昔ながらの論点に回収されると予測される。

どうもニーチェのアフォリズムではないが、ぼくのスタイルはその傾向があるので、読みにくくて、たまらないかもしれないけど、ここまで読んでくれたひとは有難い。

メッセージとしては、社会が大変なことになっていて、我が家の家計も大変なことになっているけれども、とにかく、日本の良さは、現場主義に対する理解だから、理論と臨床のバランスを考慮しつつ、加賀乙彦「科学と宗教と死」の主題に重なるようにして、生きる。中間層の厚みを増すのはもちろんだが、それに自足するのではなく、それはあたりまえで、中・露・米といった地政学的な大国の国益のために、翻弄されつつも、変節を繰り返しながら、生き延びてきたこの国のここ1500年くらいの歴史の変遷を再確認する。その上で、自分の立ち位置を明確に自覚し、覚悟を決め、目の前のことを処理、つまり世界と関与していく。

先の「世界の陰謀論を読み解く」にあったのは、宇野正美がエバンジェリカルで、米国の扇動家の反ユダヤ主義をそのまま、随分、昔だが、輸入したこと。そして、戦争前に愛宕北山が活動していたことはネットの言説で知っていたが、徳富蘇峰も同じく、陰謀論を唱えていたとあること。まあ、いずれにせよ、オタク話で、大事なのは、金融機関の信用創造や貨幣・金利に関する、メディアが避けたがる議論があるという現実だ。

市場原理主義についてもどうもメディアは避けたがる。宮古のリアスという地域通過の話が先日新聞に出ていた。われわれは「エンデの遺言」が投げかけた、経済に対する根源的な問いかけを重く受け止めなければならない。

格差をもたらす資本主義・市場原理主義がもつ、競争原理と格差社会のバランスを封印して、陰謀論のレッテルを貼って、ピリオドにしてしまうと手痛いしっぺ返しが待っている。メディアが報道しない事実の方も意識するのがいい。メディアを信仰してはいけないということだ。

さて、世界にどう関わるか、日常と折り合いをつけながら、死と対峙する。加賀氏の前掲書には明確に書かれていて、文字通り、死に直面して来た、そして現に直面しているキリスト者の作品とそのメッセージをぞんざいに扱うわけにはいかないと思うのだが、若い読者には、氏の生命を賭した作品のメッセージがなかなか伝わらないようだ。

京都大学で教えている旧友によれば、最近の研究室は、留学生に議論が押されているということだ。我々の頃と比べたら、子供の数が半分に減っているので、かなり質も劣化しているらしい。若いんだから、シンガポールや香港、上海、ソウルで、鍛えるのもいい。もはやこの国は右肩上がりではないし、「できるひと」はどこへ行っても通用することを示していかねばならない。

ピーチアビエーションが本格稼動すれば、アジアと日本の距離がぐっと縮まる。大阪、ミナミにはアジアの富裕層をターゲットにした、国際医療拠点を設けるとのことだ。僕が通うボランティアの「外国人日本語クラブ」も盛況で、日本人講師が不足している。仁徳天皇陵古墳といった、未開発の観光資源も眠ったままだし、和歌山市を含め南大阪は、高等機関たる大学の国際関係学部やアジア経済研究所のような研究機関を誘致すべきだろう。

大川周明やその愛弟子の井筒俊彦に再度スポットライトを当て、岡倉天心、宮崎滔天や頭山満、内田良平、犬養毅、竹内好、松本健一といったアジア主義者の系譜を日本人は最低限押さえておくべきだろうと思う。

まずは世界観を構築する。人生観を構築する。すべての命題は条件付だ。条件次第で、意味が変わる。問いの立て方が問題で、解を得られる問い方に意を砕く。それは選択の問題でもある。自分が世界の中で、どのような立ち位置にいるのか、どういう前提に立って、今後世界に関与して行くのか、まずはこういう手順で、ゴールを決めて、マイルストーンを管理して行く。

サルトルとレヴィ・ストロースが論争したのは有名だが、世界観の構築とその世界における自分の立ち位置は第一の課題だ。構造主義もポストモダンもそう言う意味で意義深い作業だ。その上で、ビジョンを打ち立てる。実存を賭けたビジョンであり、ビジョンに向かって、ハードワークを行う。それは単独でできる仕事ではない。

若者に対するエールを送りたい。

2012年3月20日  根賀源三


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